2018年3月19日月曜日

そうだったのか:「仁丹」の会社


子供の頃、祖父に近づくとよく「仁丹(じんたん)」の匂いがしていた。銀色の小さな粒は子供心に興味があって、ねだってもらうのですが、刺激が強く変な匂いがするし口に入れても美味しくなかった。

調べてみると、仁丹の会社の変遷が面白い。

仁丹を製造発売しているのは、森下仁丹(株)。創業者の森下博は、1869年(明治2年)広島県沼隈郡鞆町(現・福山市)に生まれた。

9歳で、煙草の製造販売する煙草商「角新」に見習奉公に出る。さらに、大阪心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」に丁稚奉公に出る。

1893年(明治26年)、25歳にして薬種商「森下南陽堂」を創業した。これが、現在の「森下仁丹」の操業になる。しかし、創業当初は決して順風満帆とは言えなかった。

1900年(明治33年)に、笹川三男三医学博士の開発した梅毒新剤「毒滅」と「ルーデサック」(コンドーム)」を売り、これが大当たりする。

1905年(明治38年)には、「赤大粒仁丹」(仁丹の前身)を発売する。風邪や食あたりに効くというフレコミで、赤色は丸薬の表面をベンガラでコーティングした。宣伝効果もあって、売薬の中での売上高第1位を達成した。

「仁丹」というネーミングは、「仁儀礼智信」から「仁」をとったもので、「丹」は「丸薬」という意味。

トレードマークの「大礼服マーク」の由来は、外交官を意味し、世界で信頼される薬を目指した「世界の外交官」ということらしい。「仁丹」は、万能の護身薬として戦場にも持っていかれた。また、新しく発売した体温計も当たる。

ところが、第2次世界大戦中の空襲で、会社のほとんどを失うことになる。1943年(昭和18年)、創業者の博は75歳で亡くなる。

新社長には博の孫の泰が就任した。泰は当時21歳の大学生だった。1947年(昭和22年)には、戦災をまぬがれた工場で仁丹の製造を再開。食品・菓子にも挑戦し、「仁丹ミントガム」「うめぼしガム」「梅仁丹」などをだす。

それまでの医薬部門、食品部門、体温計部門はそれぞれ発展していった。体温計部門は株式会社仁丹テルモになり、現在の総合医療機器メーカーのテルモに繋がる。食品部門は失敗に終わるが、医薬部門は、仁丹以外に、医薬品、機能性健康食品など製造販売している。



広島ブログ