山頭火といえば、僧侶の袈裟をかけ流浪の旅を続け、酒をあおり安住の地を求めつつ、5.7.5などのきまりにとらわれない独自の俳句を生み出していった俳人である。
種田山頭火という人の、その生い立ちは複雑だった。
1882年(明治15年)12月3日、山口県防府市八王子の大地主・種田家の長男として生まれる。10歳で父親の放蕩、母親の自宅井戸での投身自殺を経験する。私立周陽学舎(現・山口県立防府高校)に入り、文芸同人雑誌を発行。
1899年7月、周陽学舎を首席で卒業。同年9月、県立山口尋常中学(現・山口高校)の四年級へ編入。その後、早稲田大学大学部文学科に入学。 しかし、神経衰弱のため大学を退学。防府の実家へ帰郷。1909年8月、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚。
種田家は破産に追い込まれる。 父竹治郎は行方不明になり、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移る。荻原井泉水が主宰する新傾向俳句誌『層雲』で俳人としての頭角を表す。妻子と別れ、上京するが、関東大震災にあう。
熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺住職・望月義庵に預けられ寺男となる。1924年、得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。
1925年、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けた。1932年(50歳)、郷里山口の小郡町に「其中庵」を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。1938年には山口市湯田温泉街に「風来居」を、さらに1939年、松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年58。
代表の句としては、
- あすはかへらうさくらちるちってくる
- 分け入つても分け入つても青い山
- お天気がよすぎる独りぼっち
- こころ疲れて山が海が美しすぎる
- うしろすがたのしぐれてゆくか
- あざみあざやかあさのあめあがり
- 一椀の茶をのみほして去る
- 人のなさけが身にしみる火鉢をなでる
- どうしようもないわたしが歩いてゐる
- うつむいて石ころばかり
- ともかくも生かされてはゐる雑草の中
- ひとりひつそり竹の子竹になる
さて、冒頭、CMの「ほととぎす あすは あの山越えてゆかう」だが、放浪のなかにあった山頭火がホトトギスの声を聞きながら、明日はさらに歩みを進めて、あの山の向こうになにかあると信じて行くのだと決意しているように聞こえる。
山頭火のこの句がタイヤのCMに使われたことで、昔のブリジストンタイヤのCMの歌を思い出した。「どこまでも行こう」という歌、小林亜星が作詞、作曲。
山頭火の辞世の句は、「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。魂は雲に乗って、向こうの世界に行ったに違いない。
更新:福山雅治つぶやきCM第2弾はココ。